2014.12.15 Kajitani

現代中国:過去と現代のあいだ
梶谷懐

第15回


第4章:日本と中国のあいだ
―「近代性」をめぐる考察(3)




3. 日本と中国-異なりながら連動するモダニティ-



 さて、これまで論じてきたことから、日本の言論空間を以下のような二つの「二重性」を持つ物としてまとめることができるだろう。


1. 戦後日本の言論界は、表面上は西洋近代的な前提の下で様々な議論を行ってきた。しかし、それはより深層の部分で「アジア」的な要素により常に影響を受けてきた。この意味で西洋近代/アジアという「二重性」を持っている。

2. 戦前においてはアジア主義という形で、戦後においても文革をめぐる問題という形で、日本の言論空間が「アジア的なもの」に正面からコミットする場合がある。しかしその場合の「アジア的なもの」へのコミットは、最初は弱く・貧しい「アジアの民衆」(図の第Ⅲ象限)へのコミットメントという形をとるが、最後は専制的な権力(図の第Ⅱ象限)に絡め取られてしまうという意味で「二重性」を持つ。
 戦前・戦後を通じ日本の言論空間は、このように「アジア的なもの」と表面上は切り離されているようであっても、地政学的な条件も一因となって、そのつながりが完全に切れてしまうことはなかった。冷戦期のように中国大陸との国交が絶たれた時期においては、「アジア的なもの」とのつながりは通常はほぼ意識されないレベルにまで抑圧されるが、それでも大江健三郎のような鋭敏な感性を持った作家によって、あるいは文革のような特異な現象への注目を通じて、そのつながりは常に意識されてきた。そして、冷戦が終結し、中国との経済関係や人の往来が拡大し、中国の台頭が日本の安全保障上における言論の表層レベルにおいても、「アジア的なもの」を意識しつつ議論を展開することが避けられなくなりつつある。

2014.12.08 Kajitani

現代中国:過去と現代のあいだ
梶谷懐

第14回


第4章:日本と中国のあいだ
―「近代性」をめぐる考察(3)




2. 文革と近代性(モダニティ)の問題



 さて、前々回の連載を、以下のような言葉で締めくくった。


 ただし、これは柄谷一人の責任に帰せられる問題ではないのかも知れない。僕自身、このような左派系知識人の中国認識の「混乱」についてより深く捉えるためには、戦後日本の知識人が他者としての「中国」をどのように体験したか、なかんずく「文革」をどのように体験し、それに向き合ってきたか、という点を掘り下げていく必要があるように感じている。
 これはやや唐突な印象を与えたかも知れない。このテーマを持ち出したのは、一つには近年研究者の間で「文革」を前近代(プレモダン)の遺物と捉えるか、それとも近代性(モダニティ)の産物と捉えるかということで生じていた論争が念頭にあったからだ*1。ここでこの論争に立ち入ることは差し控えるが、そこで問われていることを起点にして日中のモダニティ、あるいは「近代化」をめぐる議論の盲点のようなものが明らかにできるのではないか、と考えたのである。

*1 例えば代田(2011)に収録の諸論考、石井知章(2011)「太平楽論の体たらく―代田智明氏に反論する―」『中国研究月報』第65巻第7号、代田智明(2012)「蛸壺のなかのまどろみ」『中国研究月報』第66巻第5号などを参照。


2014.11.30 Ando et Lochard

渡し舟の上で

Sur la barque des passeurs

現存被曝状況*から、現存被曝状況へ

entre deux situations d'exposition existante

安東量子+ジャック・ロシャール Ryoko Ando et Jacques Lochard



第2回


写真: 宮井優


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編集部から




親愛なるジャック

 あなたから手紙をもらって、このお返事を書くまでのあいだに、ひとつ、渡し舟を漕いできました、と言っていいかしら。

 福島の友人たちと一緒に、ノルウェーへ行ってきたのです。ちょうど2年ぶりのことでした。

 気心の知れた古い友人たちに再会するようで、この訪問が決まってからというもの、私は、ずっと楽しみにしていました。2年ぶりの訪問だから、ということだけが理由ではありません。実を言うと、ノルウェーの友人たちは、2年前に最初に会ったときから、私たちの友人だったのです。こんな風に書いても、きっとあなたは、不思議に思わないんじゃないかしら。

 日本では、ノルウェーの一部の地域が、チェルノブイリ事故によって大きな影響を受けたことは、ほとんど知られていません。ましてや、そこに暮らす人々が、どのように放射能と向き合ってきたかなんて。

2014.11.30 Kajitani

現代中国:過去と現代のあいだ
梶谷懐

第13回


第4章:日本と中国のあいだ
―「近代性」をめぐる考察(3)




1. 「アジア的なもの」をめぐる言論空間



 前回に引き続き、もう少し柄谷行人の言論にこだわってみよう。欧米のポストモダン思想に近いところから出発したと考えられがちな柄谷だが、実はこれまでにも彼自身の「アジア」をめぐる問題群へのこだわりを感じさせるような仕事をいくつか発表してきている。特に彼の「アジアへのこだわり」が比較的前面に出ていると考えられるのが、昭和から平成に移り変わる節目の時期に発表された評論集『終焉をめぐって』である。

 例えば、同書に収録されている「大江健三郎のアレゴリー」という文章の中で柄谷は、大江健三郎の代表作ともいえる小説『万延元年のフットボール』を題材にして、非常に興味深い指摘を行っている。その内容を簡単にまとめると、こんな感じだ。戦後民主主義を代表する「進歩派」知識人と見なされることの多い大江は、その社会問題に関する発言では一貫して西洋的・近代的な価値観を代表する者として振る舞ってきた。しかし、『万延元年-』のような小説の世界では、そのような近代的価値観と対立するような、暴力的で、謎めいていて、それで独特の力強さを持つ人物や世界を描いてきた。たとえば、『万延元年-』に登場する、転向した元左翼の活動家であり、「谷間の村」に住む人々の朝鮮人への反感を利用し、「天皇」と呼ばれる朝鮮人が経営するスーパー・マーケットに対する襲撃・略奪を煽動する主人公の弟・「鷹四たかし」という人物がその典型である。

[ブログ開設にあたって]

ここでは、「朝日出版社第二編集部ブログ」の一部を引き継ぎます。具体的には、
・梶谷懐「現代中国:現在と過去のあいだ」
・安東量子+ジャック・ロシャール「渡し舟の上で―現存被曝状況から、現存被曝状況へ」
です。今後、新たな連載複数を公開していきます。
また、11月14日に東京堂書店で開催された、
・大澤真幸+吉川浩満両氏によるトークイベント 「真木悠介『現代社会の存立構造』の可能性の中心―『資本論』再評価の機運の中で、40年を隔てた再評価を試みる」
をご紹介する予定です。
・吉川浩満『理不尽な進化』(朝日出版社、2014年10月刊)についてもいくらかのご報告をしていきます。
2014年11月末日 赤井茂樹